第1章(会津藩士と北方警護)

18世紀後半、たびたび外国船が日本近海に近づき領土的野心を含めて交易を求めてくるようになった。当時、一部の外国との交流を除き交易を禁止する鎖国を行っていた幕府は、列強の日本近海への進出を脅威に感じていた。とりわけ二度の襲撃を受けた蝦夷地(北海道)を守る必要性を痛感し、会津藩に奥羽地方の諸藩とともに蝦夷地を守る出兵を命じた。会津藩から約1600名、計3000名の藩兵がその任に就いた。その後、幕府は蝦夷地を直轄地に定め、諸藩の力を導入し経営の強化を図るため、その一部を会津藩と奥羽諸藩に領地として与え、開拓と警護に当たらせた。

参考文献
 「北に生きた会津武士と農民〜福島県と北海道」 北海道開拓記念館
 「北のまもりと開拓」 会津武家屋敷

 寛政11年(1799)  幕府は東蝦夷地を領地とした。
 文化 3年(1806)  ロシア人の樺太襲撃・掠奪
 文化 4年(1807)  ロシア人がエトロフ島・樺太・利尻島を再び襲撃。幕府は、会津藩に
                蝦夷地(北海道)警護のための出兵を命ずる。
 文化 5年(1808)  会津藩兵約1,600人が松前、宗谷、利尻島、樺太に出兵、警護に
                当たる。
 文政 4年(1821)  幕府は松前・蝦夷地を松前藩の領地と定める。
 安政 2年(1855)  幕府は松前・江差地方を除く全島を幕府の直轄地とする。
                松前藩は代替地として伊達郡梁川などを与えられる。
 安政 6年(1859)  会津藩は幕府より蝦夷地の一部を領地として与えられ、支配・開拓及び
                警護を命ぜられる。
 万延 元年(1860)  会津藩は仙台・庄内・秋田の諸藩とともに北蝦夷地(樺太)の警備を命
                ぜられる。

第2章(戊辰戦争と会津藩士の入植)

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